追悼 グレン・フライ 「すべてを計画的に実行してきた」

ボブ・ディランブライアン・ウィルソンエリック・クラプトンなど、2016年もまた多くのベテランアーティストたちが来日を予定している。

 

そんな70歳代のアーティストが現役で活躍している今、グレン・フライの67歳での死去は早すぎるといわざるを得ない。

 

ここでは彼が生前に残した言葉を振り返りながら、そのキャリア(の一部)を追いかけたいと思う。

 

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【曲作り】

グレン・フライはイーグルス結成以前、ジャクソン・ブラウンと同じアパートに住んでいた。

フライはブラウンが曲作りをしている様子を見て、自分でも曲作りというものを学んだという。

 

「私はジャクソン・ブラウンの天井と自分の床を通して、曲作りを学んだ(※ブラウンの部屋の上にフライが住んでいた)。ジャクソンは起き上がると第一節とコーラス部分を、自分の思い通りになるまで20回繰り返して演奏した。そして沈黙がある。次にティーポットの音が聞こえてきて、さらに10分から20分ほどの間静かになる。そしてまた演奏を始め、そこから第二節が作り上げられ、それをまた20回演奏する。私は起き上がって「それが君のやり方なのか?」と聞いたんだ。曲作りとは、努力、時間、アイデア、そして粘り強さの賜物なのだ」

 

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【ファーストとセカンドのプロデューサー グリン・ジョンズ】

最初の2枚のアルバム『Eagles』『Desperado』のプロデューサーにはグリン・ジョンズが選ばれた。

すでにザ・フーレッド・ツェッペリンのプロデュースでその腕を認められていたこの人物の名前を発見するまで、フライは「アルバムの裏カバーを、まるで死海文書を読むように読んだ」。

 

この2枚のアルバムからは、その後のイーグルスの活躍と比べると小規模のヒット曲しか生み出されていないが、「Take It Easy」や「Desperado」などの代表曲が収録されている点で重要な仕事であった。

 

   

 

結局、3枚目のアルバム『On the Border』では(収録曲2曲を除いて)グリン・ジョンズはプロデュースを担当していない。

よりロック色の強いサウンドづくりを志向したバンドと、あくまでカントリー路線を進めようとしたジョンズ側との意見の相違が原因で、プロデューサー交代に至ったといわれている。

 

しかしグレン・フライはグリン・ジョンズと仕事をしたことについて好意的に振り返っている。

 

「グリン・ジョンズには実に多くのことを教えてもらった。曲のアイデアに余分なものがたくさんあっても、その中からどのように曲をアレンジしていくか、そしてそれをスタジオでどのように一つの形にしてゆくか、ということを学んだのだ。グリンはまた私たちにプロとしての仕事の取り組み方、そしてそこからアーティスト性を導き出すやり方を教えてくれた。また彼のおかげで、私は自分自身についても学ぶこともできたのだ」

 

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(グリン・ジョンズ) 

 

 

【バンドメンバーについて】

『One of These Nights』(1975年)当時のバンドメンバーについて、フライはこのように語っている。

 

「バーニー・レドンとドン・フェルダーは二人とも誇るべきギタリストだ。二人の演奏を比較するつもりはない。しかし、二人それぞれがクラレンス・ホワイトとデュアン・オールマンの流れをくんだ演奏を続けているのだ。ドン・ヘンリーは岩のような男で、また彼は私が今まで一緒に仕事をした中でも最高のシンガーだ。ランディ・マイズナーはパッケージにつける完ぺきなリボンのような存在だ。トップではヒバリのような声で歌い、ボトムではカントリーミュージックに唸るようなネブラスカR&Bのベースを加えてくれるのだ」

※クラレンス・ホワイトはザ・バーズなどで活躍したギタリスト。

 

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【バンドの成功】

1970年代初頭、イーグルス以外にもカントリー・ベースのロックバンドは多く存在した。

しかしどのバンドもイーグルスほどの成功を収めてはいない。

そんな成功に向けた彼らの意気込みが伝わってくるのが以下の発言。

 

「すべてを計画的に実行してきた。私たちはポコやザ・フライング・ブリトー・ブラザーズなどが、初期の勢いを失っていったのを見ていた。自分たちは同じ間違いは決してしないと決心し、ベストを尽くして取り組んだ。みんなルックスを良くし、上手に歌い、上手に演奏し、いい曲を書く。私たちはすべてを求めていた。同時代の人たちから評価され、AMラジオでもFMラジオでも曲が流れ、No.1シングルやNo.1アルバムを多く出し、優れた音楽を生み出し、そしてたっぷり稼ぐ、とうことだ」

※「ポコ」はランディ・マイズナーやティモシー・B・シュミットが在籍していたバンド。「ザ・フライング・ブリトー・ブラザーズ」はバーニー・レドンが在籍していたバンド。

 

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「とにかく負けることはできないと思う。イーグルスが一緒に演奏するのが長く続くほどいい。たとえどんなことがあってもそうだ」

 

「いったんトップに行ってしまうとあとは落ちるしかない。だからトップに行くのにあまり急ぎすぎないようにしたい」

 

「私は音楽をほかの何よりも愛している。どんちゃん騒ぎよりも音楽のほうが好きだ。イーグルスはしっかりと機能したパーティ・アニマルなんだ。私たちは決して仕事をすっぽかしたりはしない。いつも万全な状態でステージに上がっていた。これが私の仕事哲学なんだ」 

 

しかし近年は、こんなことも言っていた。

「人はいつも物事が速く進むことを望んでいるのに、物事のほうは決して速く進んでくれない。しかし(66歳になった)今は、十分速く進んでいるように感じる」。

 

グレン・フライ最後のソロアルバムは2012年にリリースされた『After Hours』であった。

 

 

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グレン・フライ愛用のタカミネ・アコースティックギターについては以下の記事参照。

musique2013.hatenablog.com

 

 

 

(参照)

Glenn Frey obituary | Music | The Guardian 

With the death of Glenn Frey, it's time to reassess the Eagles | Music | The Guardian

Eagles: 'We were too busy trying to find a good restaurant' – a classic interview | Music | The Guardian

Glenn Frey was the Eagles' 'spark plug' – invaluable, driven, reliable | Music | The Guardian