ジミ・ヘンドリックスをスカウトした男 チャス・チャンドラーが語る伝説のギタリスト その1
ジ・アニマルズは1966年夏に解散し、オリジナルメンバーたちはバラバラになった。
バンドのビジネスが行き詰まったことが原因といわれており、元メンバーたちはバンドのマネージャーだったマイケル・ジェフリーを非難していた。
ベーシストであったチャス・チャンドラーは、その後ジミ・ヘンドリックスのマネージャーとしてロックの歴史にとって重要な仕事をする。
以下は1984年にチャスが応じたインタビュー(出典:Chas Chandler Interview)で、当時のジミ・ヘンドリックスを間近で見てきた人物の貴重な証言を聞くことが出来る。
1966年にアニマルズを脱退したとき、すでに音楽業界のビジネスサイドでやっていこうと思っていたのですか?
ソロのベース・プレーヤーとしては将来に希望を持てなかった。
アニマルズのファイナル・ツアーが始まるときにジミ・ヘンドリックスをすでに見ていたので、このツアーが終わったら自分が何をやるかは分かっていたんだよ。
最終公演が終わったらニューヨークに直行し、ジミを拾い上げてイギリスにもどり、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを結成した、というわけだ。
あなたとジミとでエクスペリエンスのメンバーになるミュージシャンを探したのですか?
たくさんの人にあたってみた。
経緯としては、ノエル・レディングが事務所に現れて“ニュー・アニマルズ”のリード・ギタリストとして演奏したいと言ってきた。
「そのポジションは埋まってしまったよ。ベースに興味はないかい?」と私は聞いてみた。
彼はジミと同じヘアスタイルをしていたんだ。
だからジミと合うと思ったんだよ。
彼は私のベースを借りてジミと一緒に簡単なオーディションをした。
これがノエルが参加した経緯だ。
ドラムにはエインズレー・ダンバーとミッチ・ミッチェルのどちらがいいか決めかねていた。
だからコインを投げて(ミッチに)決めたんだ。
彼はジョージー・フェイム&ザ・ブルー・フレイムズで演奏していたドラマーだ。
そのときジミはただブルースを演奏していたんですか?それともすでにエレキサウンドのあらゆるエフェクトを統合した音楽をやっていましたか?
彼はモンスタープレーヤーだった。
そのときの私はニューヨークである女の子と付き合っていた。
私がジミと会う前の日の晩、彼女は奇妙なことにティム・ローズの「Hey Joe」というレコードをかけて聴かせてくれたんだ。
この曲はすでにリリースされてから8か月ばかりたっていて、ヒットはしていなかった。
「おおっ、イングランドに戻ったらこのアーティストとレコードを見つけよう。ヒットするぞ」って思ったんだ。
そうしたら翌日グリニッジ・ビレッジのカフェ・ホァ?でジミと会うと、最初に彼が弾いたのがこの「Hey Joe」だったんだよ。
彼をプロデュースするのは難しかったですか?
彼に歌わせるのは大変だった。
彼は自分が歌を歌えるとは全く思っていなかったんだ。
彼の声がレコードでいかにしっかりと聞こえてくるか、向かい合ってお互いに議論したものだ。
レコードで聴けるエレキサウンドのうち、どれくらいが(あなたやエンジニアではなく)ジミによる発明なのですか?
私たちはスタジオに行き、ただ機械のスイッチを入れるだけだ。
リハーサルにはとても時間を割いた。
ジミと私は部屋をシェアしていた。
ジミの彼女と私の妻も一緒だった。
私たちは一日24時間音楽に集中した。
彼が曲を書き上げてきて、私と一緒にその曲に手を加える。
そしてリハーサルに取り掛かり、バンドと一緒にその曲を3パターンか4パターン演奏してみる。
あの2年にわたって一日24時間、うつむいて音楽に没頭していた。
顔をあげようともしなかったよ。
歌詞のいくつかにあらわれているジミの「サイケデリック」な面はどこから来たものでしょうか?
私は彼にSFの本を読ませた。
私はずっとSF小説のファンだったんだ。
ジミはいイギリス来てからSFの本を読み始めた。
たとえば彼が最初に書いた曲の一つは「Stone Free」で、「Hey Joe」のB面になったものだった。
続いて書いた「Purple Haze」のとき、私たちはスタジオでサウンドエフェクトを使ったものに仕上げることにした。
こういうプロセスは段階的に行われていったことだった。
シングル曲の数曲と、奇妙な曲の数々でファーストアルバムが完成しようとする頃には、彼のスタイルは「Third Stone From The Sun」のレベルまで進化していたんだ。
※「ジミ・ヘンドリックスをスカウトした男 チャス・チャンドラーが語る伝説のギタリスト その2」へ続く。