ジミ・ヘンドリックスをスカウトした男 チャス・チャンドラーが語る伝説のギタリスト その2
(「ジミ・ヘンドリックスをスカウトした男 チャス・チャンドラーが語る伝説のギタリスト その1」から続く)
ジミはアメリカとは異なるロンドンのライフスタイルに大きく影響を受けていたと思いますか?
そうだと思うよ。
彼がそれまで慣れ親しんでいたライフスタイルとは全く違うものだったからね。
ジミは彼をトップに立った人間だと見なしている人たちと付き合い始めた。
この種の尊敬を得られることは、アーティストの才能を開花させてくれるものなんだ。
彼はイギリスのギタリストたちとも会っていましたか?
そうだね。
クラプトンはいつも家の周りにいた。
ジミとエリック・クラプトンは親友だった。
(エリック・クラプトンとジミ。1967年)
あなたとジミがわずか2年で袂を分かったのはなぜですか?
『Electric Ladyland』を作り始めた時、状況が変わってきた。
ジミはすでにビッグスターになってしまって、人の言うことに耳を貸さなくなっていた。
ファーストとセカンドアルバムの2枚は比較的スムーズにつくることができた、と私は感じていた。
しかし『Electric Ladyland』のときはジミは20人から30人の取り巻き連中と一緒にスタジオに現れるようになった。
そして彼らのためにギターを弾き始めるんだ。
仕事に取り掛からず、取り巻き連中に見せびらかしているような部分もあった。
レコーディングのために10日間スタジオにいても、1テイクしか録れない。
私は座りこんで考えた「これはばかげてる。俺にはやりたいことや見たいものがあるんだ」とね。
私の妻は妊娠していたし、ジミが付き合っている連中も好きになれなかった。
ジミはかなりドラッグにのめり込んでいた。
彼はプロデューサーのいうことは一言も聞こうとしなかった。
だから私は別れを告げたのだ。
外の世界は広く開けているし、音楽ビジネスについては十分知っていたからね。
他のミュージシャンとやることにしたんだ。
ジミと別れた後も、彼と連絡は取っていたのですか?
うん。
私がマネージャーを辞めてから7か月ほどたった時だった。
彼がうちの近くにやってきて、もう一度マネージャーをやってほしいって言ってきたんだ。
しかし私はマイケル・ジェフリーとは一緒に働きたくないと彼に伝え、その話は消えた。
(注:ジミのマネージャーとなったチャスは、自分があまり得意ではなかった財務面の管理を担当させるために、やむを得ずマイケル・ジェフリーを共同マネージャーとして迎え入れていた。マイケルはかつてアニマルズ時代にもマネージャーを担当し問題を引き起こしていた人物であり、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのマネージメントでも同様の状態だったと言われている)
その後、彼が死ぬ2日前に、またロンドンの私の家に来て彼のプロデュースをやってほしいと言ってきた。
このとき、私たちはまた一緒にやろうと合意したんだ。
彼はニューヨークに行く予定があったので、私がマネージャーを辞めた後にレコーディングしたテープを全部ニューヨークから持って帰ってくることになった。
その間私はイングランド北東部にある実家に帰ることにした。
実家の最寄駅に降り立つと、そこには私の父が待っていた。
そしてジミが亡くなったと教えてくれたんだ。
最後に会ったとき、ジミは精神面でも身体面でも健康でしたか?
彼はとてもしっかりしていて、また私たちが一緒に仕事ができることに満足していた。
彼は私の長男に会うという名目で私の家に来たんだ。
息子は私がジミのマネージャーを辞める前に生まれていたからね。
私たちはかつてのようにとても楽しい時間を過ごした。
彼はいったん帰国してテープを取りに行き、翌週の火曜日からまたいっしょに仕事を始める予定だったんだよ。
(死の前日(1970年9月17日)のジミ)
もしあなたがまだ発見されていない優れた才能の持ち主と出会ったら、再びプロデュースの仕事をすると思いますか?
ぜひやりたいね。
こちらが完全に打ちのめされてしまうような才能の持ち主と出会わないとダメだ。
現在スティーヴ・グラントという若いギタリストといっしょにツアーに出ているが、彼はジミ以来最高のミュージシャンだ。
彼はキーボードやシンセサイザーも演奏できる。
彼は私と契約を結び、イギリスに戻ったらいっしょにアルバムを作るんだ。
(注:Steve Grant(1958~)はロンドン出身のミュージシャン。現在はThe Sweetというバンドでキーボードとギターを担当している)
※チャス・チャンドラーは1996年7月17日に死去した。