イーグルス『ホテル・カリフォルニア』40周年 グレン・フライ「私たちがいなくても私たちの音楽は聴かれ続けた」

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イーグルスの5枚目のアルバム『Hotel California』は1976年12月8日にリリースされた。

 

アメリカ国内だけで1600万枚、全世界ではその2倍の枚数を売り上げた歴史的大ヒットアルバムである。

 

今年1月に亡くなったグレン・フライはこのアルバムを「私たちがレコード制作について知っているすべてを結集したthe zenith of The Eagles(イーグルスの頂点)」と呼んでいた。

 

 

【タイトルソングのもつ意味やメッセージとは?】

グレン・フライは2008年、BBCによるインタビューで「あの曲が何につい書かれた曲なのかみんなが知りたがる。私たち自身も分からないんだ」と述べている。

 

その10年前、アメリカのNBCによるインタビューでは「(彼はドン・ヘンリーと)「トワイライト・ゾーン」のエピソードのような種類の歌を書きたかった」と語っていた。

(注:「Twilight Zone」は1950年代から60年代にかけてアメリカで放映されたSFテレビシリーズ)

 

「収録曲はすべて映画で使えそうなものばかりだが、モンタージュの一つ一つといっしょに展開してゆくようにしたかった」

 

「一つの場面を映し出し、次に移る ― ハイウェイを歩く男のイメージ、ホテルのイメージ、そして男が入り、ドアが開くと、そこには見知らぬ人たちがいる」

 

「この男を映画『怪奇と幻想の島(The Magus)』の登場人物に仕立て上げた。彼はドアを開けて入るたびに現実の新しいすがたを目にする」

(注:『怪奇と幻想の島』はイギリスのミステリー映画。1968年公開)

 

「何か奇妙なものを作ろうとしたんだ。単に自分たちにそういうものを作れるかどうか試してみたかった。そうしたらそこから多くのこと、たぶん実際に書かれていること以上のことを読み取られてしまうことになった」

 

「私たちは完璧なあいまいさを作り上げることができたと思う」

 

一方ドン・ヘンリーはこう語っている。

 

「私たちは中西部出身の中産階級の子供たちだった。「Hotel California」はロサンゼルスのリッチな生活に対する私たちなりの解釈だったんだ」。

 

また別のインタビューでヘンリーは、この曲は「loss of innocence」(無垢・純粋さの喪失)だと述べている。

 

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【ベストパーツを編集して完成】

リード・ギタリストのドン・フェルダーによると、最初この曲のキーはEマイナーで書かれていた。

 

最初のレコーディングではこのキーで演奏されたが、ドン・ヘンリーのヴォーカルには合わないことがわかり、Bマイナーに変更されたという。

 

「(Bマイナーは)必ずしもギター演奏に向いているキーではない。しかし彼の声にはぴったりだった」とフェルダー。

 

二回目のセッションのヴァージョンは演奏のスピードが速すぎたらしい。

 

そこで一度やり直すため、三回目のセッションをマイアミで行った。

 

プロデューサのビル・シムジックは「三回目のレコーディングでうまく行ったんだ」と回想している。

 

この三回目のセッションではいくつかのテイクがレコーディングされたが、その中でよいパーツを選んで編集することで、今日私たちが聴いているあの曲が完成したという。

 

「あの時期のイーグルスは完璧を求めていた」とシムジックは語る。

 

「編集の過程で“コーチ、出来るかどうかやってみてよ”と言われたんだ。コーチというのはその時の私のニックネームだ」

 

「(“出来るかどうか”と言っているのは)あるドラムの音をほかのもう少しいいテイクと編集で入れ替えることだった。この曲は初めから終わりまで編集されている。私たちがやっていた完璧な作業とはこういうものだった」

 

   

 

【デモ通り弾かされた?ギターソロ】

ベーストラックが出来上がると、今度はギターソロのレコーディングになった。

 

ここでは、ドン・フェルダージョー・ウォルシュと即興で作り上げることをイメージしていた。

 

しかしドン・ヘンリーの考えは違った。

 

フェルダーは回想する。

ジョーと私はジャムセッションを始めた。するとドン・ヘンリーは「ダメだ、ストップ。それじゃダメだよ」っていうんだ」

 

「何がダメなんだ?って聞くと「デモと同じように弾かなくちゃダメだ」という」

 

「困ったのは、デモを作ったのはもう1年も前だったんだ。何を演奏したかなんて覚えていない。だからマリブにいる家政婦に連絡してカセットを探してもらい、ラジカセで再生して電話越しに聴かせてもらった」

 

「電話越しの音を録音して、今度はこのマイアミのスタジオでそのデモどおりに演奏したんだよ」。

 

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【アルバム『Hotel California』】

グレン・フライは1992年にこのアルバムについて「バンドで成し遂げた最高の仕事だった」と述べた。

 

「私たちは自信に満ち溢れていた。今いる場所から一歩踏み出して挑戦してみることを恐れていなかった。それにバンドにはとても才能のあるギタープレイヤーが二人いたんだ」

 

当時批評家たちはイーグルスがあまりにも技巧的で洗練されすぎてしまったと批判した。

 

これに対するバンドからの反論は「プラチナディスク16枚」という結果で充分だった。

 

「多くの人に受け入れらたものに対しては、評論家たちは急に影響力をなくしてしまう」

 

「そうなると彼らはもう人の好みを判定することなどできないんだ」

 

Live At The Summit 

 

 

【『Hotel California』から『The Long Run』】

「そのあとは楽しくなくなった」とグレン・フライは当時を回想している。

 

「バンドメンバーはお互いの本能的な感覚を信用しなくなった。だから大きな溝ができてしまった。加えてヘンリーも私もドラッグにはまってしまい、状況の改善などできなかった」

 

「スタジオに行くことが学校に行くような感じになったんだ。とにかく行きたくなかった。しかし『The Long Run』の制作過程で、私とヘンリーは最も重要なことを発見した。それは、歌詞の源というものは後から補給できるものではない、ということだ」

 

「つまり「今さら何を語るんだ?」ということだったんだよ」

 

「(制作の)終わりに向けて、私たちはとにかくレコードを完成させてリリースしたかった。とても洗練されたアルバムだし、あれほど時間をかけ、素晴らしい時もあったのだから。しかし私たちの誰一人としてまた同じことをやりたいと思うものはいなかった」

 

Live on Air 1980 

 

 

【“イーグル”であり続ける】

その後『Hell Freezes Over』で再結成し、その最初のコンサートでフライはこう語った。

 

「価値のある人間関係というものは、究極の状態を乗り越えなくてはいけないんだ」。

 

「Hotel California」は今でもイギリス国内のラジオ局で毎月200回以上プレイされている。

 

2001年、アメリカのスパイ機が中国に緊急着陸したとき、乗組員たちは自分の国籍を証明するために中国当局からあることを要求された。

それはこの「Hotel California」の歌詞を口ずさめ、ということだったという。

 

2000年、グレン・フライはこう書き残している。

 

「バンドは1980年に解散した。しかし、私たちがいなくても私たちの音楽は聴かれ続けた」

 

「私がどこに行き何をしようとも、その後の人生での私は一人の“イーグル”であり続けるということが、だんだんはっきりと分かってきた」。

 

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With the Eagles and Without 

 

 

Beacon Theatre, New York 1974

 

 

Unplugged 1994 

 

 

 

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