ビル・ワイマンが語る『Exile on Main St.』と今のローリング・ストーンズ
2010年、ビル・ワイマンは雑誌「Bass Player」のインタビューに応じ、同年に公開されたローリング・ストーンズのドキュメンタリー映画『Stones in Exile』に関する質問に答えている。
このインタビューの時点で、ビルがストーンズを脱退して18年が経過していた。
それでも『Exile on Main St.』のセッションについて、そして今のストーンズの音楽について語るビルの口調はまったく好意的ではなく、むしろ不満タラタラといった感じに聞こえる。
その一方で1990年の初来日公演を最高のツアーの思い出の一つとして述べており、日本のファンとしては嬉しいコメントもある。
リマスターされた『Exile on Main St.』のために新たにオーバーダブするよう依頼されましたか?キースやミック・ジャガー、ミック・テイラーはオーバーダブをしましたよね?
いいや、チャーリーも私もその必要はなかった。共同プロデューサーのドン・ウォズが私たちの演奏をとてもほめてくれている記事を最近読んだんだが、あれはとても良かったよ。
オリジナル盤の問題のひとつは、あなたのベースがミックス段階で埋もれてしまっているということですね。
そうだね、彼らはいつも私を深く埋め込んでしまうからね。
いつも別々のミックスを用意して、どちらを使うか議論するんだ。私はそれに参加しないが、それでもやはり自分のベースがほとんど聞こえないとかなりがっかりしたものだ。
だが、彼らはキースのギターをもっと強調したかったんだろう。私は単にそこにいただけ、ということになる。
それに、私が本来与えられるはずのクレジットが与えられることもなかったんだ。『Exile』アルバムの裏を見ると、実際は私が演奏しているのにほかの人がベースを弾いていることになっているものがある。
ミックはいつもクレジットを間違え、手遅れになってから気づく。だからそれもイラつくことだったよ。
このアルバムのレコーディング・セッションは、伝説となっているとおり、混乱を極めたものだったのですか?
スタジオでは平日に演奏をして、土曜・日曜はメンバーはバラバラになった。
だから週末は、キースは元気であればボビー・キース(サックス)やジミー・プライス(トランペット)、ジミー・ミラー(プロデューサー)たちとセッションをしていた。エンジニアのアンディ・ジョンズも同じ場所に住んでいたので、レコーディングする気になればできたんだ。
キースはある週末にセッションをやっていて、ジミーがドラムをたたいて「Happy」をレコーディングした。それが結構うまくいったんだ。
月曜日の朝戻ったとき、そのレコーディングを耳にしたのは嬉しい驚きだったよ。
(注:ジミー・ミラーはかつて「You Can’t Always Get What You Want」でドラムをたたき、「Honky Tonk Women」のイントロではカウベルをたたいている。)
スタジオの様子はどうなっていたのですか?
セッションはまったくの悪夢だったよ。
私たちがレコーディングをしていた環境は冗談みたいなところで、地下のワイン貯蔵庫のような場所だった。結露が壁を伝わってたれてくる。だから服を脱がなくてはいけなかった。
ホーンのミュージシャンたちは廊下を上ってキッチンで演奏していた。
カメラやマイクはなかった。外にある移動スタジオと直接コンタクトできるものもなかったんだ。だから誰かと話すときは階段を上っていかなくてはいけなかった。
私のベースは階段の下の部屋の外に設置されていたんだ。
そんな原始的なレコーディング環境ではどんな影響がありましたか?
私がいないときにレコーディングが進めらると、他の人がオリジナルトラックを演奏してしまったのはがっかりだった。
そういう場合はチャーリーのドラムにキースがベースを弾く。キースの代わりにミック・テイラーの場合もある。
もちろん、私が戻ったときにすでにベースパートが上手くレコーディングされていたら、私がわざわざその上に録り直したって何も意味がない。
でももしキースやミック、またはミック・テイラーがいなかった場合は、後でオーバーダブできたんだ。
あれはバンドのリズムセクションにいて不便だと感じたことだった。もしチャーリーがレコーディングのときにいなかったらジミーがドラムスをやる。そうするとチャーリーは絶対その曲でプレイできないんだ。
典型的なレコーディングセッションはどんな感じでしたか?
本当に馬鹿げていたよ。でももっと馬鹿げていたのは、誰も同時に現場にいないことだった。
月曜日はミック・テイラー、チャーリー、そして私が来る。キースは上の階で寝ていて、セッションには顔を出さない。私たちはみんな、はるばる遠くから来てるのにね。チャーリーなどは5時間かかるところから来ていた。
ピアノを弾いていたニッキー・ホプキンスはしばしば私のところに滞在していた。
私たちが「ネルコート」に到着すると、今度はミック・ジャガーが地元のセレブたちとのパーティーに出かけていていない。こんな感じでメチャクチャだったんだ。
翌日はミック・テイラーがいなくなっちゃう。
次は私とキースとチャーリーだけがいて、ミック・ジャガーが現れない。パリだかどこかまで(ビアンカとの)結婚指輪を買いに行ってしまう。
さらに翌日はミックがチャーリーと私といっしょにネルコートにいるが、キースがいない。 ミック・テイラーもいない。
来る日も来る日もこんな感じだった。やってらんなかった。
だからあのレコードが出来上がったのは奇跡だよ。すべてがバラバラに作られたんだからね。バンド全体が同時に集まっていたことなんてなかった。まったく馬鹿げていた。
キースのヘロイン服用がとてもひどかった時期ですが、彼はどんな状態だったのですか?
このことについては私があまりしゃべるべきじゃないだろうが、ある典型的な出来事は週末に泥棒に入られたことだ。
たしか朝の10時にセッションが終わって、人ごみの中を車を飛ばしてはるばる家に帰り、ビーチで過ごし、お昼ごろに家に戻ってランチを食べ、寝る。
そして日曜日になると、電話がかかってきて「みんながテレビを観ているとき誰かがキースの家に入って全部のギターとサックスを盗んでしまった。人が入り込んで楽器を全部持ってってしまったんだよ」と言ってるんだ。
(注:キースが支払いを滞っていたドラッグディーラーがこの強盗の首謀者だと言われている)
こういう馬鹿げたことが起こっていて、まったく冗談みたいな話だよ。
しかし仕事場がキースの家だったから、彼はいつでも好きなときに仕事ができてさぞかし幸せだったろうね。
私たちみんなは、他ならぬ彼に合わせてその場にいなければいけなかったんだ。
あなたが『Exile』のセッションから距離を保っていることが多かった理由は、みんながドラッグをやっていて一緒にいたくなかったからだ、とあなたはかつて述べていますね。
そうだったと思うよ。70年代を通して私たちに付きまとっていた問題があり、また私はドラッグをやることに一番興味がなかったのに、空港でのチェックなどではほかのメンバーたちと同じ成り行きを味わうことになったため、不満があったんだ。
ほかの人たちはみんな問題に頭を突っ込んで行った。あれは本当に悪夢だったよ。
あなたは、おそらく最も優れたストーンズのリフである「Jumping Jack Flash」で正式にクレジットされていません。ストーンズのメンバーだった時、共同作曲者として正式にクレジットされていない曲がほかにもたくさんあるはずですね。
どの曲もスタジオでつくり出されていったから、そういう曲はたくさんあった。
つまり、キースはリフを持ってくる、それだけだ。あとは一週間にわたって曲が仕上がっていくんだ。そしてミックが歌詞を書き、それが「ジャガー=リチャーズ」とクレジットされてアルバムに収録されるんだ。
これはいつものことだった。
彼らがほかのバンドのように、クレジットを分け合うほど心が広くなかったことについて、私は少しがっかりしたものだ。
ビートルズはリンゴ・スターやジョージ・ハリスンにも自作をやる余裕を与えたし、ザ・フーはジョン・エントウィッスルに曲を書くチャンスを与えた。他のバンドがお互いに分け合っているところを、ストーンズはやらないんだ。
それを受け入れるか、それともバンドを去るか、どちらかだった。
だから私はソロ・アルバムや映画音楽をやり、ほかのアーティストたちのプロデュースをした。そうやって満足感を得たんだ。
あなたのストーンズの音楽への貢献のなかでクレジットされていないものには、どんなものがありますか?
「Paint It Black」のレコーディングは良かった。床に寝てオルガンのペダルをこぶしで押し続けた。足ではできなかったからね。あのリズムがレコードを完成させたんだ。私があれを提案するまで、あの曲には何かがが足りなかったんだ。
「Miss You」での“ウォーキング・ベース”、オクターブで演奏するベースも私がつくり出したといっていい。あの曲の後、世界中のバンドがあのベース奏法を曲の中に使ったものだ。ロッド・スチュアートもやっていたし、多くのファンキーなバンドもやっていた。
ストーンズのメンバーとして最も思い出に残っていることは何ですか?
私にとっては1969年7月5日のハイド・パーク・コンサートが最高だった。ブライアン・ジョーンズが亡くなった2日後だった。ライヴで演奏するのが最高だった。あれはある種の魔法だったよ。
ストーンズのツアーで最高だったのはいつですか?
どれも素晴らしかった。バンドはどんどん良くなっていったんだ。
もちろん、1969年のツアーだって「オルタモント」までは素晴らしかった。チャック・ベリーやテリー・リード、アイク・アンド・ティナ・ターナー、B.B.キングなどといっしょに素晴らしいツアーをした。
それから1990年の日本も素晴らしかった。10公演連続でやって、毎回45,000~52,000人が聴きに来たんだ。誰もあんなことはやったことはなかった。
それから2年後に脱退したときには、ストーンズのベストな音楽はもう過去のものになってしまったと感じていたのですか?
ストーンズの音楽が最高だったのは1968年から72年の間だった。私が脱退した92年は関係ないよ。
最後にストーンズのコンサートを観たのはいつですか?
2007年か2008年、ロンドンのO2アリーナだった。
今のストーンズは私がいたころと同じようには聞こえてこない。昔は危険で、かつ緩んだところがある演奏をしていた。
しかし今は機械のようだ。クリックトラック(=メトロノーム)に合わせて演奏しているみたいで、あんなことは昔はやらなかった。
音楽が私の好きだったころよりも機械的になってしまって、私がメンバーだったころはあんなじゃなかったんだ。
過去18年間、もしバンドといっしょにいれば稼ぐことができたはずの巨万の富を考えると、「世界最高のロックンロールバンド」を脱退したことを後悔したりしませんか?
本気で言ってるのかい(笑)?まったくない。全然ないよ。
バンドとはいい時間を楽しんだし、今でも彼らとは友人だ。
私がストーンズを脱退するとき、チャーリー以外は誰も理解してくれなかった。雰囲気も悪くなり、悪口がメディアに流れたりもした。
しかし最後は彼らは私の決断を受け入れてくれたんだ。私は結婚し、私の生活がどう変わったか理解してくれたんだよ。
今でも彼らとはお互いに誕生日やクリスマスのプレゼントを送り合う仲だ。今でも家族のような感じだが、毎日会いたいとは思わない。たまに会うだけでいいね。
ビル・ワイマンがローリング・ストーンズといっしょにステージを輝かせるのを、私たちはいつか見ることができるのでしょうか?
もし彼らが世界中に中継される大きな最後のコンサートをやるときに、私を誘ってくれたら、たぶんファンたちのために引き受けるだろう。
しかし今のところ興味はないね。
出典:Bill Wyman on Making The Rolling Stones' Exile On Main St. | Bassplayer