ピート・タウンゼントが自分のギターの歴史を語ったロング・インタビュー(1/3)

 

 

以下は2010年3月に「Premier Guitar」に掲載されたピート・タウンゼントのインタビュー。

 

とても長い記事なので、3回に分けて掲載する。

 

まずは第一弾。最近のステージでは「エリック・クラプトンストラトキャスター」をメインで演奏するに至った経緯について、ピートは今までの自分のギターの歴史を雄弁に語っている。

 

f:id:musique2013:20180401003416p:plain

 

ザ・フーは1963年からずっと堅実に仕事を積み重ねてきた。でも1982年、私はもうたくさんだと感じた。この長い間ずっと、私はステージで使うギターを楽器というよりは道具とみなしてきた。決して表現豊かに演奏しようとはせず、練習もあまりやらず、音作りを一生懸命にやったわけでもなかった。ザ・フーはただ一つの目的に尽くしてきたバンドだった。それは観客に応えるということだ。そして多くの場合、自分たちはそれをどのようにやればいいか分かっていなかったんだ。ミュージシャンとしてのザ・フーというよりは、私の歌やバンドのイメージのほうに関係があると感じていた。私自身がザ・フーのファンだったことは一度もなかったのだ。

 

1962年の終わりごろ、私は「Harmony」のシンプルなシングルコイルのエレキでキャリアをスタートした。「Stratotone」と呼ばれているものだったと思う。ロジャー(・ダルトリー)がリード・ギタリストを辞めてヴォーカリストになったときに、彼が持っていたエピフォンのP-90ピックアップ搭載ギターを譲ってもらった。今となってはあれはなかなかのギターだったと思うが、正直言うと1964年に最初のリッケンバッカーを手に入れるまで私は満足できなかったんだ。その後すぐにトップモデルだった12弦のリッケンバッカーも手に入れた。私はジム・マーシャルとその仲間たちがマーシャル・アンプを開発するのを手伝ったことがった。そのマーシャル・サウンドはリッケンバッカーのとても低音で細く、押し寄せるような音に合わせてつくられていることを考えると、興味深いと思う。私が求めていたサウンドはスティーヴ・クロッパーのサウンドで、かつ大音量のものだった。リッケンバッカーを初期のマーシャルアンプで弾くとその音が出せたんだ。セミアコースティックのボディと、スピーカースタックが直接ギターとつながっていたおかげで、音楽的なフィードバックを洗練させることができた。

 

f:id:musique2013:20180401002200j:plain

 

1964年前半、まだザ・フーがお金を稼ぐようになる前、アートスクールのやるようなパフォーマンスアートをステージ上でやっている途中で、6弦のリッケンバッカーを壊してしまった。ロジャーはそのギターを修理できるといっていたが、私のステージ上の話は瞬く間に広まって、12弦のものや他の4本のリッケンバッカーを壊すのも時間の問題だった。それから初めて私はもっと強いギターを探し始めたのだ。当時ザ・フーはイギリスとヨーロッパを廻っている最中で、ギターは高級品だった。例えば12弦リッケンバッカーは385ポンド、現在の価値でいうと5,925ポンドになる。当時は1ポンド2ドル40セントだったから、あの12弦ギターは14,220ドルしたことになるんだ。みんなが私のステージ・パフォーマンスについて信念を通すことを求めるたびに、私は少し怒りを覚える。こっちはその対価を払っているんだから。

 

家1軒以下の値段で買えるものなら何でも試してみた。Gibson 335、ストラトキャスターテレキャスタージャズマスター、ダンエレクトロなどを持って写っている私の写真が今でも残っている。私が求めてきたのは良い音のギターではなく、強いつくりのギターだった。そのため、私はたくさんのフェンダーを使ってきたのだ。ギターを壊すパフォーマンスの時でもネックが壊れてしまうことはなかったし、外れたネックをボディにもう一度付け直して配線をし直す作業をするたびに、私は一歩ずつギター職人に近づいていけるんだ。

 

f:id:musique2013:20080109151139j:plain

 

ジミ(・ヘンドリックス)がロンドンにいたとき、私はたまたまストラトを弾いていた。彼は私のアドバイスをもとに、いくつかの特別なファズボックスを除いたすべてのアンプ一式をそろえ直した。だからそのころの私たちのサウンドは似ていたのだ。しかしその機材一式を使って何をするかということになると、誰も彼に近づくことはできなかった。だから私はもっとコード進行に徹した演奏をしようと決心した。(キース・)ムーンの乱れがちに連打し続けるドラミングにビートの利いたバックボーンを与えるような演奏を目指した。その後すぐに、偶然にだが、P-90を搭載したギブソンSGを見つけた。そのとき私はサウンドシティ(のちのハイワット)とマーシャルアンプ・スタックを使っていて、そこから『Live at Leeds』のサウンドが完成したんだ。このサウンドで私はその後ずっと、少なくともステージ上ではやり続けてきた。SGは比較的軽いので、コンサートの最後だけでなく、腰のところで持って演奏している最中でも何本か壊してしまったことがあった。そのため、時にはとても頑丈にできているストラトを代わりに使ったことがあった。

 

今でもいっしょに働いているギター技術者のアラン・ローガンが、たしか1970年代の前半だったと思うが、私のところにやってきた。その後少したって、私はフィードバックのためのミドル・ハムバッキングを搭載したレスポールスペシャルを開発した。このギターは重かったが、そのころの私はステージで飛び跳ねたりすることが以前よりも少なくなり、パンクっぽい動きをするようになっていた。1982年のザ・フーの最後のツアーまでこのギターを使っていた。ギブソンはシグネイチャーモデル「ピート・タウンゼントレスポール」を作ってくれて、これもいいギターだったが、やはり重かった。ミドルのピックアップというのはフィードバックがすぐにできるように弦に近くなるように取り付けてある。オン・オフのできるスイッチが別についていて、いわゆるマシンガン・スタッカートができるようになっていた。他の2つの小さなハムバッキングは従来のギブソンギターの様式で配線されていたが、フェーズスイッチがついている。スタジオではこのギターで私の求めているほとんどすべてのサウンドを出すことができた。

 

f:id:musique2013:20180401003951j:plain

Pete Townshend Deluxe Gold Top '76

 

1989年、バンドの25周年ツアーのために再集結したとき、私はステージではアコースティックをメインで演奏していた。でもあちこちでストラトを手に取り、ロックの演奏を もした。そのとき私はすでに7年近くツアーから離れていた。練習はたくさんした - もしかするとギターよりもピアノを多く練習したかもしれない。しかし私にはすごくいいスタジオがあったし、もっと上手くなるようにがんばったんだ。当時もまだギブソンSGは私の重要なギターだったが、「エリック・クラプトン・モデル」を手にしたとき、2つの点で最高のギターを手にしたのだ。一つはフェンダーのクリーンなサウンドが必要なときに弾けること、もう一つは内蔵のパワーブースターのおかげでスラブ・フィンガーボードでのコードワークに適したダーティなサウンドもできるということだ。その後はSGもしばしば演奏していて今でも大好きだしレコーディングで使うが、やはりストラトのアームがとても気に入っている。

 

1963年、私は初めて自宅にスタジオをつくった。これがまた楽器としてのギターに別の役割を与えることになった。私は自分のつくり出そうとしている歌に合うものを求めているだけなのだ。『Who's Next』のころまでずっと私は自宅のスタジオに基本的なギターコレクションを持っていた。(このアルバムのリリースされた)1971年にマニー(※訳注)でギターを買いあさったことがあった。そのとき、初めてマーティンD-45、ギブソンマンドリン、マーティンのウクレレやティプル、ペダルスチール、ギルド・マール・トラヴィス、そして美しいギルドの12弦ギターなどを手に入れた。今でもこれらの楽器のいくつかは手元にある。その前は、自宅でデモテープをつくるときは、ハーモニーの12弦ギター(シンプルなものだが、音がいい。『Tommy』のレコーディングで使っている)、ダンエレクトロのベース、時々ストリングベースとして使う古いチェロ、それにそのときのギグがら持ち帰ってきたエレキギターなどを用意していた。

(※訳注:「マニー」はニューヨークにあるギターショップ)

 

f:id:musique2013:20110505002529j:plain

 

1971年以降、すべてが変わった。アラン・ローガンが数々のイケてるギターを探し出すのを手伝ってくれたんだ。ジョー・ウォルシュは私にグレッチとフェンダーのアンプ「BASSMAN」、エドワーズのペダル(ニール・ヤングのサウンドが出せる)を譲ってくれた。彼はフライングVもくれた(でも残念ながら、初めて大きなボートを買うときにこれを売ってしまった。彼は決して私を許してくれなかった)。ダンジェリコを2本か3本購入して、このギターがいかに優れているものか、その価値が分かってきた。「Who Are You」の中のアコースティック・ソロはダンジェリコ・ニューヨーカーで演奏したものだ(このギターもボートを買うために売ってしまった!)。私がついに上手く弾きこなしているのを聞けるだろう・・・

 

1993年、ニューヨークでミュージカル『Tommy』を制作している最中、私はパット・マルティーノと知り合った。彼はまだそのとき脳の病気からの回復に努めている最中だったし、それに彼は私をギター・プレイヤーとして評価していたとは思わない。彼はとても礼儀正しかったが、どちらがどちらのファンだったかは実にハッキリしていた。私は彼の作品が、初期でも後期でも、脳の手術の前でも後でも、大好きだった。彼は私にポール・リード・スミスを持ってきてくれて(私にはとても軽量過ぎた)、それはピエゾ・ピックアップが内蔵されているものだった。あれは私が初めて見たピエゾ内蔵のエレキで、自宅に持ち帰るとアランがいくつか探し出してくれていろいろ試してみた。

 

ピエゾ・ピックアップから出てくるシューっという弦のサウンドが、ステージでのパフォーマンスでとても役に立つ。近年ソロをやるときに私が使うサウンドに色合いや微妙な違いを与えることができる。他にも良いところがある。私のテクニックのひとつに、ブリッジやピックアップを手のひらや手首で叩く、というのがある。重たいマシンガンのような、雷のような爆発音をだすために、早く叩くんだ。ピエゾはこのサウンドづくりに重要な役割を果たしてくれる。ギターのボディに与えられたドンッという音を伝えてくれるからだ。フィッシュマンが長い努力を重ねて、ピエゾのシステムがとても透き通る音を出せるようにしてくれたんだ。

 

 

 

(「ピート・タウンゼントが自分のギターの歴史を語ったロング・インタビュー(2/3)」へ続く。)

 

f:id:musique2013:20180401005231j:plain

 

出典:Pete Townshend: On Guitar-Smashing Regrets, Stylistic Evolution, and Becoming a Gear Aficionado