ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのドラマー、ミッチ・ミッチェルのインタビュー

 

 

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以下は雑誌「Drum! Magazine」の1998年2月号に掲載されたドラマー、ミッチ・ミッチェルのインタビュー(「Mitch Mitchell: The Hendrix Years」)。

 

やはりジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス時代の話が多く取り上げられており、概して好意的でいい思い出として語られているのがうれしい。 

 

とくに最後の「ジミ・ヘンドリックスが生きているうちに伝えたかったこと」では、ジミ本人を知っている人だからこその説得力と温かみのある言葉で語られており、感動的だ。

 

 

ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのオーディション】

「チャス(・チャンドラー)のことはアニマルズで知っていた。彼が "(アメリカから)連れてきた奴といっしょに演奏してみないか?" と電話をしてきたんだ。そのときは気づかなかったが、もちろんそれがオーディションだった」

 

「ソーホーの地下にある小さなストリップクラブに行くと、そこにはフェンダー・ストラスキャスターを逆さまに持ったジミがいた。ワイルドな髪型にバッタ物のロンドンフォグのレインコートを着ていた。ノエル・レディングは、あとで実はギタリストだったことが分かったのだが、ジミとはそのときすでに数日間ベーシストとしてセッションをしていた」

 

「私の記憶が正しければ、そこにはNero and the Gladiatorsのキーボード・プレイヤーもいたと思う。キーボード・プレイヤーもバンドに入れるというのが最初のアイデアだったのだろう」

 

「私はとにかく小さなラディックのドラムキットに腰掛け "何をすればいいんだい?" と聞いた。何を求められているけど、これはいったい何ごとなんだろう?と思ったよ。小さなアンプが並んでいたが、ヘンドリックスはその小さなアンプに不満でしまいにはそれらを蹴飛ばし始めたのを今でも覚えている。多くのオーディションと同じく、結局あまり共通点を見出せるものではなかった。そのときはチャック・ベリーの曲を数曲と、それ以外にもあれこれと演奏した」

 

「彼のギターの演奏を私はとても興味深く感じた。そのスタイルに私は興奮したんだ。私はそれまで、カーティス・メイフィールドがいた初期のインプレッションズのデモテープに、セッションドラマーとしてたくさん参加していた。ヘンドリックスはそのカーティス・メイフィールドのスタイルで演奏できる私が初めて会った奴だった。めったにないことだ。だから私は「ジェリー・バトラー・ソング」とか「インプレッションもの」などと呼んだものだ。彼はインプレッションズを知っていて、演奏することができたんだ。私はそれまで、そういう分野の音楽をやったことがなかった」

 

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【2度目のセッションに呼ばれて】

※初めてのオーディションにいたキーボーディストがいなくなっており、ギター、ベース、ドラムの3人編成になっていたのを見たミッチェルは、当時人気を誇っていたクリームに対抗するバンドを想像した、という。

 

「私は冗談めいた言い方で "ジンジャー・ベイカーみたいに演奏してほしいのかい?" と聞いたんだ。するとヘンドリックスは "ああそうだよ、自分の好きなようにやってくれ" と言ったよ」

 

「しかしその2回目のセッションでは何かが解放されたような印象を受けた。自由の感覚といったものだった。それが精神的な覚醒であったかどうかは分からない。今まで一度もスリーピースバンドでは演奏したことがない、そしてこの演奏家には何かとても特別なものがある、そう感じるところに自分が達したんだ」

 

「驚いたことに、私が声をかけられる前の2週間ほどのあいだ、他のたくさんのドラマーがオーディションに呼ばれたいたらしい。ロンドンは大きな場所ではなく、当時はそれほど多くのドラマーがいなかった。それなのに私の同業者と呼ぶべき人達が数多くこのオーディションを受けていたんだ。エインズレー・ダンバーやミッキー・ウォーラーもこのオーディションを受け、ジミのことを知っていて、いっしょに仕事をしたがっていた。そんなことは知らなかったから、私は驚いたよ」

 

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ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとしての活動開始】 

「マネージャーのチャスに聞いたんだ。 "どんなオファーなんだい?契約はあるのか?" すると "俺たちには何もない、チャンスがあるだけだ。基本的に2週間の仕事がある、それだけだよ" という説明だった。だから "よし、OK。やってみよう。2週間やってみるよ" って答えたんだ。失うものなど何もなかった。私は19歳で、音楽が大好きで、とてもインスパイアされるものがそこにあったからだ」

 

「始めたときには何のレパートリーも持っていなかった。だから最初の何回かのライヴでは、ウィルソン・ピケットの「Midnight Hour」とか思いつくものを何でもやったんだ」

 

「彼(チャス)に感謝だよ。チャスは自分のもっていたベースギターを手あたり次第質に入れて、バンドがレコーディングの時間を取れるようにしてくれた」

 

「当時と比べると技術が大きく変化している。ヘンドリックスといっしょにレコーディングを始めたころは、チャス・チャンドラーがプロデューサーだった。アニマルズの「House of the Rising Sun」のレコーディングにはわずか4ポンドの費用しかかけておらず、1テイクのみ、しかも15分で終わらせたんだ。それでいい出来になっている」

 

「もちろん、能力のあるエンジニアがいたことも私たちは運が良かった。当時のイングランドには数々の才能ある人たちがいたんだ。思い返すとやはりすごかったと思う。イギリスのエンジニアたちが技術を限界まで最大限に活かしたんだ。スタジオの構造を理解し、どのマイクを使うべきか、どこから音を録るべきかを分かっていた。限られた機材でアコースティックの楽器をフル活用したんだ」

 

「ヘンドリックスにはスタジオで仕事をする自然の能力が備わっていた。彼にとっては絵の具のパレットのようなものだった。スタジオの仕事に難なくなじんで、どのように仕事を進めるか分かっている人たちがいるものだが、彼はまさに当時のテクノロジーに自然とあわせることができたんだ。それ以前にどれくらいスタジオで仕事をした経験があるのは分からないけどね」

 

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【曲作りについて】 

「とくに決まりというものはなかった。スタジオで書かれ、演奏され、出来上がったものがたくさんあった。一度だけ演奏したけど、もう二度とやらなかったものもある。そういう感じだったんだ。結局、すべて忘れてしまうんだよ」

 

「私はまったく自由に演奏できた。でも私は当時も今も "どんなリズムを聞きたいんだい?" と(バンドメンバーに)臆面もなく聞いたものだ。もしジミが "boom-chicka-chick, boom-chicka-chick" というのを欲しがっていれば、"これでいいかな?" と私は聞いてみる。またはジミが基本のリズムを弾いて、私がそれに合うものができるかどうか試してみる、ということもあった」

 

「私はほかのドラマーたちと何も変わらない。そのとき思いついたほかのドラマーの演奏からテクニックを盗んだんだものだよ。たとえば「Manic Depression」の場合。あのドラムパターンはロニー・スティーヴンソンというドラマーから拝借したものだ。ジョン・ダンクワースの曲「African Waltz」のドラミングなんだよ。ちょうどぴったりとはまるんだ。ジミがギターで(「Manic Depression」を)弾くのを聴いて、"よし、このフィーリングだ" と思ったんだ。だから、ロニー・スティーヴンソンに感謝だよ」

 

「後進に何かを残すことを考えていたわけではない。自分ができる最高の音楽を残すことが重要なんだ。とても競争の激しい状況だった。ビバップ時代と似ていて、厳しいながらも健全な時代だった。そしてもちろん当時は、単に1960年代だというだけで、たくさんのバンドが同じ場面から登場しお互いを追い抜こうと争っていた」

 

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【他のミュージシャンとの出会い】

「コンサートが終わると、ホテルに戻る。すると "どこそこで演奏しているギタリストを知っているよ" とジミがいう。それはロイ・ブキャナンだったり、コーネル・デュプリーだったりした。彼はこういったギタリストたちとツアーの最中ややシカゴ南部で知り合っていたんだ。私もいっしょについて行って、彼らと一緒に演奏するという栄誉を楽しんだ」

 

「ニューヨークではジョー・テックスと彼のバンドといっしょに演奏することになった。カウント・ベイシーではないよ!ニューヨークのホテルにいたとき、ジミが夜中の2時ごろ起こしに来た。 "ミッチ、来いよ。いっしょに来いって" "え、何?" って感じでね。あの場に居合わせることができたのはとても感謝しているよ」

 

「ある日曜日に、マイルス・デイヴィスの家に招待されたこともあった。ちょうどジョン・マクラフリンがニューヨークに来たばかりで、マイルスがピアノ、ジョンが古いギブソンアコースティック・ギターで、一緒に作品作りを始めたところだった。私はそこに座っていて聴いていた。すると突然 "おい、ドラマー!" って声がする。私は周りを見回した。 "おい、ドラマー!お前ドラマーだろ?" 。私は何と言うべきだったのかな? "そうです、僕はドラマーです" といったら "一緒に演奏しろ" という。でもドラムなどそこにはない。だから私はキッチンに行って、洗い物用の道具を持ってきて音を鳴らしてみた。しばらく演奏すると、"OK、2時にCBSに来これるな?" 。それだけだった。翌日2時、私はCBSトニー・ウィリアムスの最新のグレッチのドラムキットで演奏していたんだ。今でもそのドラムキットを持っているよ」

 

ジミ・ヘンドリックスが生きているうちに伝えたかったこと】

「お互いに決して言わなかったことはたくさんある。でもそれは、お互いに対する温かい尊敬ということに尽きると思う。音楽面では、私は彼に大変な思いをさせたし、彼も私に大変な思いをさせた。しかし私からすれば、それは上手くやっていける状況だったんだ。頭で思い描ける限りのどんな時であっても、究極の自由を与えてくれる人と一緒に演奏ができるのはとても興味深いことだった。境界線もなく、限界もない。ジミは友人としても音楽家としても、誰にも取って代わることのできない存在だった。今でも彼を想い出すと寂しくなるよ」

 

 

 

 

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