ジャニス・ジョプリン『チープ・スリル』が "ライヴ風" アルバムになった理由とは?
ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーは1967年6月、モントレー・ポップ・フェスティヴァルに出演し、そのパフォーマンスが評判となり注目を集めていた。
同67年8月にはデビューアルバムをレコーディングし、12月に『Big Brother & the Holding Company』がリリースされる。
翌1968年8月には『Cheap Thrills』をリリース。10月にはビルボードチャートでNo.1になり、その地位を合計8週間(断続的)確保した。
1968年の終わりにはすでに100万枚を売上、その年の最も成功したアルバムの一つとなった。
「Piece of My Heart」 の大ヒット
この曲はもともとアレサ・フランクリンの姉であるエマ・フランクリンの歌として知られていた。ジャニスの後にもフェイス・ヒルやビヴァリー・ナイトなどが歌っているが、やはり今でもジャニスの曲として最も知られている。
エマ・フランクリンは初めてジャニスのヴァージョンを耳にしたとき、これが自分の歌っていたのと同じ曲だとは気づかなかったという。それくらいジャニスのヴォーカルアレンジは独特だった。
ジャニスの死後「Me and Bobby McGee」が全米No.1になるが、それまではこの「Piece of My Heart」が彼女の最大のヒット曲だった。
アルバムジャケット
『Cheap Thrills』のアルバム・ジャケットは漫画家ロバート・クラムによる絵が使われている。
バンドの当初のアイデアはメンバー全員が裸でベッドに横たわっている写真をジャケットとして使う、というものだったが、これはレコード会社によって却下された。
クラムの絵はもともとはジャケットの裏側に使われる予定であり、表面はジャニス・ジョプリンの顔をフィーチャーするはずであった。しかしクラムのファンであったジャニスは、クラムの絵が表面に来るよう希望し、それが実現したのである。
"ライヴ風" アルバムになった理由
このアルバムはライヴ・レコーディングであるかのように観客の歓声が聞こえてくるが、これはあとからオーバーダブで付け加えられたものだった。
実際は収録曲のほとんどがスタジオ録音であり、ライヴ録音されたのは最後のトラック「Ball and Chain」のみである。
しかし、観客の歓声や司会者のアナウンスを入れるというのはレコード会社の思い付きで勝手にやったことではなかった。
ジャニスをヴォーカリストに迎えたビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーはその優れたライヴパフォーマンスで注目を集めたバンドだったが、前年にリリースされたデューアルバムはジャニス本人も「糞レコード」と呼ぶほど不満足なもので、売上もそこそこだった。
彼らがライヴで生み出す興奮をレコードに収めるには、ライヴ盤をつくるのが一番だとバンドもプロデューサーも意見が一致した。
1968年3月、バンドは移動式のレコーディング機材とともにデトロイトに移動。「グランド・シアター」で2回のライヴを行い、その模様をレコーディングした。しかしことは思うように進まなかった。
バンドの演奏、そして何よりもジャニスのヴォーカルが大音量をきわめてしまい、レコーディング・メーターがずっと振り切ったままになってしまった。さらに、バンドのエネルギッシュなパフォーマンスに対して観客の反応があまりに薄かったという、今では想像できない事態が生じた。当時あれほど叫び声をあげる女性ヴォーカリストは存在しなかったため、観客は喜ぶ前に驚いてしまったのである。
結局バンドはコロンビア・レコードのスタジオに入り、事実上すべて録り直しということになった。
予約だけでゴールドディスク認定
ニューヨークで2週間のセッションを行ったが、結局出来上がったのは3曲だけだった。プロデューサーとバンドはロサンゼルスのスタジオに移動し、アルバムの完成に向けてレコーディングを再開した。
プロデューサーのジョン・サイモンは完璧主義者だった一方、ジャニスを含めたバンドのメンバーはとてもリラックスしてやりたいようにやるタイプのミュージシャンたちだった。こうしたスタイルの食い違いからスタジオ作業もなかなかはかどらなかった。
その時の様子はジャニスの死後公開された映画『ジャニス』に収められている。
4月から6月にかけて行われたレコーディングが終わり、ようやく仕上げの段階に入ろうとしたとき、すでにこのレコードは予約だけで50万枚を突破しゴールドディスクに認定されていた。
出荷を迫るレコード会社からのプレッシャーのもと、スタジオでは36時間ぶっ通しでミキシングを行った。一日半にわたって睡眠も食事もほとんどとらないまま最後の追い込みをして、この歴史的レコードは完成したのである。
このアルバムがリリースされた年の12月、ジャニスはバンドを脱退した。ジャニスをヴォーカリストとしたビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーの成功は、短期間で終わる。