息子ジュリアンが語る 父ジョン・レノン「10年間、父と私はほとんど話をしなかった」

2020年3月、イギリスの新聞「The Guardian」紙にジュリアン・レノンによる父ジョン・レノンの回想が掲載された。

 

www.theguardian.com

自分と母を捨ててオノ・ヨーコのもとへ走った父親への怒りと和解、音楽の道に進んでも父親のキャリアには追い付くことができなかった焦りなどが、率直に語られている。

 

以下はその和訳。

 

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父との幸せな思い出の多くは、私が幼い頃、1960年代後半にサリー州にあったケンウッドという古いチューダー様式の建物で過ごしたものです。自分でも知らず知らずのうちに、私は世界で最も偉大なミュージシャンの何人かがこの建物を出入りしていたのを見ていたのです。

 

その建物の屋根の上に座って、父と一緒にバルサ材の飛行機を作ったのを覚えています。そこからの眺めは最高でした。子供の頃の私は、父が家族や家庭、そして世の中での自分の居場所に満足していると思っていました。この後すべてが変わってしまうことなど誰が予想できたでしょう?

 

ビートルズが『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』をリリースしたばかりの頃です。当時、父は有名なサイケデリックロールスロイス「ファントムV」に乗っていました。後部座席にレコードプレーヤーが付いていたので、私はこの車が大好きでした。ホンダのモンキー・バイクというミニ・バイクも持っていて、二人で乗り回していました。リンゴがこの通りを下ったところに住んでいたので、父がバイクで彼のところに連れて行ってくれたこともあります。

 

ケンウッドでは父と私は仲良しでした。いつも一緒にいたために、私のファーストネームもジョンなのに「ジュリアン」や「ジュールズ」と呼ばれるようになりました。母が「ジョン、夕食ができたわよ!」というと、父も私も返事をしてしまうからです。

 

そして突然、父は文字通り目の前から姿を消してしまったのです。少なくとも私にはそう見えました。父とオノ・ヨーコは深く、公衆の目をはばからずに愛し合っていました。そして、私と母はまるで脇に追いやられたかのように感じました。でも、みんなが私たちのことを忘れていたわけではありません。ポールは母と私が元気にやっているか心配して家に立ち寄った後、「Hey Jules」を書いてくれました。もちろん曲のタイトルは「Hey Jude」に変わりましたが。

 

おそらく10年ほどの間、父と私はほとんど話をしませんでした。私は父が家族を捨てたことにとても腹が立っていたのです。そんな中、また父と話をするようになったのは母のおかげでした。母はとても優しい心の持ち主で、どんな形であれ、決して恨みを持つことはありませんでした。母はいつも私に父との関係回復を望んでいたのです。

 

両親の離婚後、初めてアメリカに父を訪ねた時は怖かったです。父の存在の大きさに気付き始めていたからです。しかし訪問はうまくゆき、私は安心しました。父は魅力的で、面白くて温かい人でした。あの旅から、私たちは以前よりも仲良くなれたのを覚えています。

 

父という存在のために、私は自分が音楽業界を入ることをためらいました。自分のライブ演奏や曲のアイデアを、父にもらった小さなソニーウォークマンで録音し、そのカセットテープを父に送りました。

 

父は演奏を続けるようあたたかく背中を押してくれました。しかし悲しいことに、父が体験していたたキャリアの展開を、私自身は見ることができませんでした。数年後にようやくプロのミュージシャンになった時、父のことをもっと理解できたように感じました。

 

私はできるだけ父のよい記憶を思い出すようにしています。父が私と母に課した困難な時期については許し、理解しようと努力しています。私は何よりも母を愛していたし、父の母へのひどい仕打ちも忘れることができません。でも、私たちの関係は父が亡くなる前には良くなっていました。父はもっと幸せな環境にいたのです。私とだけでなく、家族との関係回復を望んでいました。しかしその機会は得られないままだったのです。

 

父が亡くなってから40年近く経った今でも、私は父の思い出を大切にしています。