ブラインド・フェイス50周年 なぜクラプトンはこのスーパーグループを脱退したのか?
1969年7月7日、ロンドンのハイド・パークに10万を超える数の人が集まった。 新しいスーパーグループの誕生をその目で確かめるためだった。
新バンド「ブラインド・フェイス」のラインナップは驚くべきものだった。 クリームから二人(エリック・クラプトンとジンジャー・ベイカー)、トラフィックからフロントマンの スティーヴ・ウィンウッド、プログレッシブロックのバンドであるファミリーからリック・グレッチという、当時最高のミュージシャンたちが集った。
期待は最高潮に達していた。 しかし、逆にそのせいで、期待外れは逃れられない運命でもあった。
当日の彼らの演奏は控えめで不安定だった、という評価が残っている。 “スーパーグループ” にもかかわらず、彼らはあまり自信をもっていなかったように見えたのである。
ウィンウッドは後にこう語っている:
あれが私たちの最初のライヴだった。最初のライヴを10万人の前でやるのは最高とはいえないシチュエーションだ。緊張が高ぶり、押しつぶされてしまいそうだった。ふつうのツアーのようにリラックスできなかった。
クリームのような活気や大胆なところを見せることが出来なかった。 クラプトンはドラムの後ろに立って演奏し、閉じこもったままで、自らを解放しようとはしていなかった。
ベイカーはこう語っている:
リハーサルやレコーディングではエリックは素晴らしい演奏をしていた。しかしハイド・パークでは彼がいつ本気で演奏し始めるのかずっと不思議に思っていたんだ。明らかに目覚ましいスタートではなかった。
ブラインド・フェイスはクリームの曲は一曲もやらなかった。 セットリストにはトラフィックの「Means to an End」、ザ・ローリング・ストーンズの「Under My Thumb」、サム・マイヤースのブルース「Sleeping in the Ground」が含まれているが、それ以外はすべて自分たちで作曲した曲ばかりを演奏した。
この時点ではまだアルバム『Blind Faith』はリリースされていない。
- Well All Right
- Sea of Joy
- Sleeping in the Ground
- Under My Thumb
- Can't Find My Way Home
- Do What You Like
- Presence of the Lord
- Means to an End
- Had to Cry Today
1969年の後半になるとブラインド・フェイスはスカンジナビア諸国とアメリカをツアーで回る。 そしてデビューアルバム『Blind Faith』は、そのジャケットは物議をかもしたものの、商業的に大成功した。
しかし出立当初からこのバンドが長続きすることは難しかった。 とくにクラプトンはまったくこのバンドに心を入れていなかった。
当時の写真を見ても、クラプトンだけ笑顔を見せていない。
この写真に至ってはカメラすら見ていない。
後に彼はこう語っている:
ヤードバーズは成功したから脱退した。クリームはその誤った成功が原因で終わってしまった。だからブラインド・フェイスでは、もうこれ以上成功とは関係なくやりたかったのだ。一人のミュージシャンとして受け入れてほしかった。
ここで言う「成功」とは商業的成功のことだろう。レコードの売上枚数、チャートの順位、観客動員数などではなく、純粋に音楽家としての成功を目指していたに違いない。
ブラインド・フェイスの全米ツアーは1969年7月12日にマディソン・スクエア・ガーデンで始まり、8月24日にハワイで終了した。
その後、クラプトンは予想外の行動に出る。
このスーパーグループを脱退し、デラニー&ボニーのサイドミュージシャンとしてツアーに参加するのである。
40年後の再現
それから38年後の2007年、スティーヴ・ウィンウッドはクラプトンが主宰するクロスロード・ギター・フェスティバルに出演。 二人でブラインド・フェイスの曲を数曲演奏した。
これが高い評価を得たため、二人はジョイントライヴを計画し、翌2008年にはマディソン・スクエア・ガーデンでクラプトン=ウィンウッドの公演を実現させた。
さらに、これを単発のライヴで終わらせることなく、2009年になると二人で全米ツアーを行う。
1969年に数か月だけ存在したバンドが、ちょうど40年後の2009年にその主要メンバーで再現されたのである。
2009年といえばクラプトンがジェフ・ベックと来日した年であるが、日本ではその2年後の2011年にクラプトン=ウィンウッドのツアーが行われた。 そのときのウィンウッドの衰えを知らないヴォーカル力に圧倒されたのを今でもはっきりと思い出すことが出来る。