ザ・フー『Tommy』50周年 ピート・タウンゼントが語るロック・オペラの誕生と自身の子供時代

以下は2013年にピート・タウンゼントが『Tommy』について語ったインタビューの日本語訳(Pete Townshend talks about The Who’s Tommy | The Star)。

 

ピートは今までもいろいろなところでこのアルバムについて語っているし、このインタビューも今となっては最新のものではない。しかし総括的な視点で語られているので、50周年の今年あらためて耳を傾けるのに適していると思う。

 

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ヘルマン・ヘッセの詩集

「ある詩から始まったんだ。私はそのころインドの指導者メヘル・バーバーに弟子入りしたばかりだった。そのバーバーがヘルマン・ヘッセの詩集を教えてくれた。そこから私は若い求道者の物語を書き始めた」

 

「私はこの人物を聴力・視力を失い、しゃべることが出来ない少年という設定にした。私たちはみんな誰でも、自分の精神面の発見に至るまでは、目が見えず、耳も聞こえず、しゃべることも出来ないのと同じ状態だからだ」

 

「(始めは)この物語を「Amazing Journey」と呼んでいた」。

 

ロック・オペラの誕生

「みんな私たちのことをホットなバンドだと思っていた。しかし、突然シングルが売れなくなった。今までと同じやり方で続けていくことなどできないことは分かっていた。だから最後に一発やってやろうと思ったんだ。すべてを洗濯機の中に投げ込んで、何が出来上がるかみてみよう、というわけだ」。

 

当時、ザ・フーのマネージャーの一人だったキット・ランバートが、トミーの誕生に大きな役割を果たしていた。

 

「キットは裕福な家の出だが、同時に世知に長けた男だった。彼はオペラこそ注目すべきものだと感じていた。今までオペラは金持ちのお祭りだったが、揺さぶりをかけてやらなくちゃいけない、と彼は言っていたんだ。そして私にロック・オペラを書くべきだとすすめた」

 

「彼は私にワーグナーから、プッチーニモーツアルトと何でも聴くようにすすめた。その中にベンジャミン・ブリテンがあり、私は『ビリー・バッド』(※)を聴いた。それ以来、これは私の作るものすべてに影響を与えてきた」

(※訳注:『Billy Budd』はイギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンが書いたオペラ。)

 

「なぜかって?このオペラは海と船について書かれたもので、同時に若い男性、ひどい虐待を受けた少年について書かれたものだからだ。子供の虐待、これが私に実に強く響いたんだ」。

 

 

 

虐待された自身の子供時代

「私の世代、第二次世界大戦直後の世代がどんなものだったか、理解してもらいたい(ピートは1945年生まれ)。戦後の影響が続く中で、子供の存在価値が変わっていった。私たちの世代は特に重要(な子供たち)だと考えられていなかったと思う。私たちは一人前として扱ってもらえなかった。私たちの親はみんな爆弾の影におびえて生きていたし、戦後の緊縮財政の中で生き抜かなくてはいけなかった」

 

「私にとってキットは本当のメンターだった。もし彼がいなかったら、『トミー』はストーリーのある一枚のロックアルバムに過ぎなかっただろう。アルバムに意味を持たせることが出来たのは、キットのおかげだった」。

 

こうしてピートはこの聴力・視力を失いしゃべることのできない少年を「amazing journey」へと出発させた。 この少年はそこで「誰もが持っている暗い側面」のターゲットになり、他人を破壊へと追いやる「アシッド・クイーン」、意地悪な「いとこのケヴィン」、そして子供を虐待する「アーニーおじさん」といった登場人物たちと出くわすことになる。

 

「アーニーおじさんは必ずしも性的虐待を具現化した存在ではない。(虐待そのものではなく)その危険、その予感、その恐れを表したキャラクターだ」

 

「私はこの部分はジョン・エントウィッスルに書いてもらうよう頼んだ。私ではやりこなすことが出来ないからだ。私は祖母との間に辛い出来事があった。私自身がまだ少年のころに性の対象にされたことがあり、その経験とどうやって向き合うべきかを学んできたんだ」。

 

ピートは自伝『Who I Am』の中で、6歳の時に両親のもとを離れて祖母と暮らすことになったときのことを詳しく記している。

 

「祖母は私の部屋の鍵をかけさせてくれなかったので、怖かった。彼女はアドフル・ヒトラーのような見た目の男性と付き合っていた。彼は小さな口ひげと横わけの髪型をして、しわだらけの腕をしていた。私は彼の膝の上に座らされて、彼を「Uncle」と呼ぶように言われていた」。

 

ピートは今でもこの記憶に悩まされているが、その一方でこうも語っている。

 

「こうしたことが、実は私一人だけに起きたのではないということが分かった。世界中で起こっている事象なんだ。私には純粋な精神の旅を書くことはできなかった。私は、みんなの心に影響を与えてしまうような、社会のもつ恐ろしい傷について書いていく必要があった」。

 

こうして、このアルバムの形式やそのメッセージが決まると、ピートは曲を書きレコーディングを進めていった。

 

 

 

ピンボールの魔術師

しかし完成が近づくと、ある大きな展開が起こることになる。

 

トミーが「ピンボールの魔術師」になり世界的な名声を得る、という設定は今ではこのアルバムの中心的なものとして知られているが、実際は最後の最後になって付け加えられたものだったのだ。

 

「オブサーバー」紙のロック批評家ニック・コーンにアルバム『Tommy』の初期ミックスを聴かせると、コーンから「この精神主義的な作られ方は少し堅苦しい」というコメントが返ってきた。 初期のミックスでは、トミーはロックスターになるという設定だったが、コーンは「もっと楽しいものにする必要がある」と言ってあまり評価しなかったのである。

 

それより前に、コーンは「ピンボールに強い16歳の少女」の話をピートにしたことがあった。 こうしたいきさつから、ピートはトミーをピンボールのチャンピオンにし、弟子たちを集め世界に乗り込んで行くという設定にすることに決めた。

 

そして「Pinball Wizard」を新たに書き上げ、そのほかにもピンボールについてふれる曲を入れることになった。

 

「これが上手く行った。ストーリー全体を軽くして聴きやすくする一方で、テーマをより深く掘り下げることが出来るようになった。そしてこのピンボールというのが宇宙について、そして自閉症アスペルガーに悩まされ、聴力・視力を失い、しゃべることが出来ない少年についてのカギになるだろう、ということに気づいたんだ」。

 

そしてこのアルバムは世界中で成功をおさめ、さらにはケン・ラッセル監督の映画やブロードウェイのショーにも発展していった。

 

取り上げた問題は今でもは変わらない

「悲しいことに、(このアルバムで取り上げた問題は)現在になってもそのほとんどが変わっていない。問題を抱える家庭があり、宗教の役目の果たし方も問題であり、有名人たちの在り方も問題だし、その他すべてがそのままだ」

 

「そこには痛切なものがある。私の世代(my generation)のことを考え、結局昔と変わらないというのは悲しいことだと思う」。

 

 

 

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