ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞を(文学界への理解を示しつつも)冷静に援護したい
「厳しい批評家たちがボブ・ディランのノーベル賞受賞を批判」(New York Post)
ボブ・ディランが2016年のノーベル文学賞を受賞したことで、文学界から一部批判が出ていると報道されている。
自然科学分野の功績に比べると、文学での功績というのは主観的な評価に頼らざるを得ないため、賛否が分かれるのはある程度はやむを得ない。
【音楽史の中で行われた文学的貢献?】
確かに今回の選考理由を読むと、厳密な意味での「文学賞」としてはあまりストレートに響いてこないようにも感じる。
「優れたアメリカの歌の伝統の中に新しい詩的な表現を創造した」という受賞理由は、ファンならずとも誰もが認めるディランの功績であるが、これは文学史の流れの中で成し遂げられたことではない。
アメリカのジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグ、さらにはフランスのアルチュール・ランボーらの影響を受けていることはディラン本人も認めている。
しかし、自分自身を「詩人」としてこれらの伝統の中に位置づけているとは考えにくい。
あくまでフォークやブルースと言ったアメリカの大衆音楽の流れの中で活動を続け、その上で文学的にも水準の高い歌詞を数多く生み出した。 そういう過程で成し遂げられた功績である。
この意味で、ノーベル文学賞が「文学への直接の貢献」に対して与えられるものだとするならば、ディランの受賞理由の正当性を疑問視する人たちの言い分には一理あるように感じる。
「ボブ・ディランはノーベル文学賞に値するか?専門家たちは首をかしげる」(Billboard)
【演者と作者が同一人物である初めてのノーベル文学賞】
また文学の世界では、演者と作者が別々であることがふつうである。
ハロルド・ピンターやサミュエル・ベケットなど、優れた戯曲を書きノーベル文学賞を受賞した作家はいるが、彼ら自身が主役俳優として舞台で演ずるために作品を書いたわけではなかった。
しかしディランに関しては、演者と作者が同一人物である。
むしろ作者が演者を兼ねているというよりは、演者が作者も兼ねている、つまり歌手(演者)であるディランが自分のパフォーマンスのために曲と詞を書いた(作者)、というのが実際のところであろう。
この点でも、従来の文学の世界には存在しなかったタイプの人が選ばれたことになる。
「ボブ・ディランにノーベル賞を与える世界とはトランプを大統領候補に指名する世界である」(The Daily Telegraph)
【ノーベルが意図したところは?】
では、アルフレッド・ノーベルが文学賞に託したものは何だったのか。
彼の遺言では「文学の分野において、望ましい方向へ向けたもっとも際立った仕事をした人」に文学賞が与えられるものとしている。
これだけを読むと、もし「文学の分野」で際立った仕事をしたとは言い切れないのであれば、ボブ・ディランの受賞は文学者たちからは歓迎されないとしてもやむを得ない。
しかし、ノーベル財団の規約の中にはこういう文言も含まれている。
「(この賞のために規定する)文学とは、いわゆる純文学のみならず、そのほかの形式やスタイルによる著述物で文学的価値のあるもの(other writings which, by virtue of their form and style, possess literary value)とする」。
この「文学的価値」については、やはりある程度の主観に頼らねばならないため、簡単には客観的な議論を進めることは出来ない。
しかしディランの書く言葉には、同時代のみならずジェネレーションを越えた説得力、ふつうの言葉に二重の意味を持たせて伝えるメッセージ力、そして時には言葉の意味を越えその響きだけを楽しむ遊び心などがあり、その文学的価値を認めることは十分可能である。
そうである以上は、ディランの歌詞はノーベル文学賞の対象となってしかるべきものであると言える。
いずれにせよ、騒いでいるのはマスコミや(このブログを含む)一般大衆であり、ディラン自身ではない。
そしてこの状態は、今から50年前の“ロイヤル・アルバート・ホール”コンサートのころから変わらない。
つまりディランは歌い続けて迷うことなく、私たちはディランの生み出すものをどう受け止めるかで迷い続ける、ということが延々と続いているのである。