【エリック・クラプトン70歳】 1975年(30歳)のクラプトン

1975年に30歳になるころには、エリック・クラプトンはすでに世界的名声を得て、トップギタリストかつシンガーソングライターとして一流アーティストの地位を確立していた。

 

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Eric Clapton - Wikipedia, the free encyclopedia

 

 

 

【世界的名声を得た20代】

21歳までジョン・メイオール&ブルースブレイカーズ、23歳までクリーム、24歳のときにはブラインド・フェイスといったスーパーグループで類まれなギタープレイを聴かせてきたクラプトンは、25歳でファースト・ソロアルバム『Eric Clapton』をリリースした。

 

さらに同じ年にはデレク・アンド・ザ・ドミノズとして『Layla and Other Assorted Love Songs』をリリース。

 

25歳という若さで歴史に残る名盤を作り上げたが、26歳から28歳までのクラプトンは、ヘロイン中毒やパティ・ボイドとの恋愛沙汰などのため、一時は隠遁生活のような状態であったことは良く知られており、本人による自伝にも述べられている。

 

28歳のときの『Rainbow Concert』をきっかけに表舞台に戻ったクラプトンは、29歳のときに『461 Ocean Boulevard』で復活。「I Shot the Sherriff」が全米No.1ヒットを記録した。

 

同年の10~11月には初の来日公演を行っている。

 

【There's One in Every Crowd】

「I Shot the Sherriff」の大ヒットを受け、次のアルバムにもレゲエ・スタイルの曲をいくつか収録することになり、クラプトンはバンドとともにジャマイカに向かった。

 

しかしこの頃すでにアルコール浸りの生活が始まっていたと言われており、ジャマイカ現地でもクラプトンの深酒が続いた。そのためレコーディングは思うように進まなかったとも伝えられる。

 

それでも何とかレコーディングを終わらせ、1975年3月『There’s One in Every Crowd』がリリースされた。

 

全10曲のうち、クラプトンによるオリジナルが半分を占めている(共作も含む)。

 

アメリカでは21位、イギリスでは15位を記録し、さらにシングルカットされた「Swing Low, Sweet Chariot」もイギリスで19位まで上るヒットとなった。

 

【アルバムリリース+ツアー】

このアルバムのリリースの後、クラプトンはハワイ、ニュージーランド、オーストラリアなどを巡る太平洋ツアー、そして6~8月いっぱいをかけて全米ツアーを完了する。

 

また、この夏の全米ツアーの音源や、前年に行われたツアーの音源をもとに製作されたライヴ・アルバム『E.C. Was Here』が8月にリリースされている。

 

さらに10~11月には2度目の日本公演を行う。

 

 

 

アルバムリリースとツアーを繰り返すという、クラプトンの「Journeyman」(流しの音楽家)としての音楽活動は、この後も継続して続けられた。

 

その意味で、クラプトンのソロミュージシャンとしてのキャリアは、この時期から本格的にスタートしたと見ることも出来る。

 

【ブルース・シンガーとしてのクラプトン】

20代前半、とくにブラインド・フェイスまでのクラプトンは、「Crossroad」など自らがリード・ヴォーカルをとる曲も一部はあったものの、あくまでバンドのギタリストとしてのポジションを重視していたように見える。

 

しかしファースト・ソロアルバムや『Layla』をリリースした25歳の時に、ヴォーカリストとしてのキャリアを本格的にスタートし、それは70歳を迎える今日でも続けられているのである。

 

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Layla’s 40th: The Where’s Eric! Interview With Bobby Whitlock

 

クラプトンを音楽に駆り立てたマディ・ウォーターズ、BBキング、バディ・ガイらは、みなギターを手に自らが歌うスタイルのブルースシンガーである。 

 

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こういったルーツを考えれば、クラプトン自身がギターを手にブルースを歌うようになったのも、当然の結果かも知れない。