【追悼】 チャック・ベリーの「ジョニー・B・グッド」について学ぶ

 

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このブログでは、1960年代よりも昔にさかのぼってロックの歴史を扱うことはほとんどなかった。

 

しかし、もしチャック・ベリーがいなかったら、ふだんこのブログで取り上げているアーティストたちも存在しなかったであろうことは、本人たちがたびたび明言しているとおりである。

 

今さらではあるが、あらためてこの名曲について学習し、本当の意味でロックの歴史を追いかけるとともに、深い哀悼の意を表したいと思う。

 

www.theguardian.com

 

この曲はチャック・ベリーが1958年にニューオリンズをツアー中に書かれた。

 

ベリー本人が「ローリング・ストーン」誌に語ったコメントによれば、この曲には自伝的な要素があるという。

 

・・・アメリカ最南部の田舎町出身の貧しい少年。

ろくに学校も行かず、将来の見込みもない。

そんな彼がエレキギターをマスターし、有名なバンドのリーダーになる・・・

 

しかし実際は、ベリーは最南部の出身ではない。

いろいろな人種の人たちが住み、豊かな音楽の伝統があるアメリカ中西部の都市セントルイスのグッド・ストリートで育った。

(訳注:「the Deep South」(最南部)とは、通常ジョージアアラバマルイジアナミシシッピーなどの州を表すが、チャック・ベリーミズーリ州出身)

 

また、彼は教育を受けていないわけではない。

彼はポップソングで「omit」という言葉をつかった最初のソングライターだったといわれている(「Little Queenie」)。

また理髪と美容の学位を持っている。

 

さらに、この曲はもともと有名なピアニストであるジョニー・ジョンソンのために書いたものだった。

ベリーはジョンソンと長年いっしょに仕事をしている。

それから半世紀後、ジョンソンは、ベリーのヒット曲の多くがジョンソンとの共作であるとしてベリーを訴えた。

しかしこの種の訴えの多くがそうであるように、裁判所は訴えを却下している。

(訳注:Johnnie Johnson(1924~2005)。ジョンソンがほかのミュージシャンといっしょに出演予定だった1952年大みそかのライヴの直前に、共演者の一人が病に倒れ出演できなくなった。その代役としてベリーを誘ったことから二人の共演が始まった。その後1973年までの約20年間にわたり、二人は共演を続けた)

 

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チャック・ベリーとジョニー・ジョンソン) 

 

最南部出身ではなく、田舎者でもなく、読み書きができないわけでもなく、白人でもなく、名前もジョーニーではないが、それ以外については、ベリーはこの名曲のキャラクターどおりの人物である。

 

Johnny B Goode」は1958年にレコーディングされた。

バンドのベーシストは「Spoonful」や「Back Door Man」などを作ったウィリー・ディクソンだった。

 

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チャック・ベリーとウィリー・ディクソン)

 

ベリーが自分のヒット曲の多くをディクソンのような有名なミュージシャンのいるバンドとレコーディングしなかったのは皮肉なことだ。

キャリアを通して、彼は安く雇い入れた地元のバンドといっしょにステージに上がることで知られていた。

あらかじめ調べもせず、リハーサルもなしで演奏を始めるのである。

 

このバックバンドのなかには、若きブルース・スプリングスティーンがリーダーを務めるバンドも含まれていた。

彼はのちに、曲の途中でむずかしいキーに変えてしまうベリーの困った癖を回想している。

 

また、フィラデルフィアで行われたあるライヴでは、ハープシコードが前面に押し出されているバンドをバックに演奏したこともあった。

 

十代のときからベリーのスタイルに導かれてきたキース・リチャーズが1987年に開催した『Chuck Berry: Hail, Hail, Rock'n'Roll』。

この映画が公開されたとき、バックバンドに無関心なベリーが彼の曲をよく知っているミュージシャンと共演するとどんな演奏をするのか、というのが目玉の一つだった。

映画でも彼の演奏は素晴らしかった。

 

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Johnny B Goode」はドワイト・アイゼンハワー大統領の第二次政権中にリリースされている。

(訳注:第二次アイゼンハワー政権は1957~1961年。ようやく公民権運動が盛り上がり始めたころである)

当時は依然として、最南部の黒人たちがリンチされる事件が起こっていた時代だ。

そのため、あからさまなマーケティング目的のために、もともとベリーが「little coloured boy」(白人じゃない少年)と書いた部分は「little country boy」(田舎の少年)と書き換えられた。

 

チャック・ベリーはアメリカの白人たちが好む音楽に最も影響を与えたシングル曲を書いたが、アメリカのブラックミュージックの発展にはほとんど影響を及ぼさなかった。

これはベリーのキャリアで最も皮肉なことの一つであった。

 

Johnny B Goode」は、シカゴのチェス・レコードの創設者であるレナードとフィルのチェス兄弟によってプロデュースされた。

ベリーをチェス兄弟に紹介したのは、伝説のブルースマンマディ・ウォーターズである。

 

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Johnny B Goode」はアメリカでは15週間チャートインしたが、最高位は8位でそれ以上は上らなかった。

 

何年もののち、この曲のオリジナルバージョンがカプセルに入れられ宇宙へ向けて打ち上げられている。

わが文明がどんなことができるかを地球外生命体に教える、というのがその目的だった。